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それは、人間の行動のパターンによって裏付けられ、正当化され、様式化され、そして固定されてきた、立居振舞のしぐさや作法、ならわしや習慣といったものである。気質や気性もそうである。そうやって、現実の社会にとって必要なものだけが、よく見えてくるのである。反対に、社会にとって都合の悪いもの、必要のないものは、見えにくくなっているのである。 これが、人間の感覚といったものであり、そしてそれが、規制され、方向づけられる原因となっている。それは感覚の必然の条件であり、前提となっているのである。ということは、それは民族ないし「種」が、生きてきた自然環境と密接不可分の関係、むしろ、一体のものであると考えるべきものなのである。 だがしかし、こうした前提や制約、定型化された限界といったものは、人間の本性に反するのではないだろうか。むしろ、そうした限界や制約を出ようとするのが、まともでもっともな人間の生き方のように思えてくる。人間らしい人間のように思えてくる。 なぜなら、そうしてのみ自分自身というのを確かめることが出来るからである。自分に納得し、自分にめざめ、自分自身のリスクにおいて、自分を生きることになるからである。自己の一体性、アイデンティティ−、そしてその連続性といったものが、自分自身の肉体でもって確かめられることになるからである。自分自身というのが、自らが自己を形成してゆく主体になるからである。 |