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6、神聖なもの。



皇帝とは、家父長のなかの父長、究極の家父長であって、精神と物質的なものすべてが「帝」に集中する。なぜか?こうした社会では、自己意識といったものがないからである。個人というのが、肉体として存在しても、精神として存在していないからである。個人の中で、このような自意識の領域といったものが存在しないからである。

人々は、自分自身の自己意識というものを他人に求める。自分にではなく、他人たる「帝(みかど)」に求めるのである。その方がラク(楽)だから。自分で自分を生きて行かなくて済むから。生きるも死ぬも自分に責任を持たなくて済むから。

だからこうした社会にあっては、自己意識は、むしろ、あってはならないもの、あるはずのないもの、わけのわからないもの、社会の異物、不純な反社会的なもの、精神異常、社会悪として、抹殺・矯正・隔離・追放される。そうすることによって、自分たちの自意識というものを、なにか神聖なものとしての「皇帝」のなかに見い出しているのである。

戻る。             続く。

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