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7、風土。



それは中世末期の、ヨーロッパの君主制とも本質的に異なる。君主制の下での国家機構は、それが君主(ミカド)とは独立した存在であり、場合によっては君主と対立し、あるいは君主を倒す事もある。国家の機構自体がそうした機能と役割を有している。
またそうした特徴が、近代国家、あるいは自由や人格の意識と直接につながっている。しかし、これが東アジア世界には無い。

飛行機に乗り、洋服を着て、ジャズを聴いていても、頭の中には自己意識、ないし自分の考えというのが無く、いつでも、どこでも、なにをしていても、権威という他人にしがみつくことだけを考えている。それ以外の生き方を知らない。だからまた、本当の意味での自由も、人権も、人格もあり得ないし、知らない。知ってはならないし、知る必要のない世界に生きている。

西洋のシステムや、文化・思想が支配していても、頭の中の観念の世界では、やはり東アジア的なのである。様式と構造の上では、そして形式的にも完璧な自由主義なのであるが、実体を支配しているのは、やはり、コネと談合なのである。それだけなのである。もしかすると、儒教という思想以前の、風土という情緒的な必然性が、それを求めているのかも知れない。

戻る。             続く。

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