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根源的なものに五感の区別などなく、それらは本来、同じものが、それぞれ違うものとして感じられているのである。同じものを、異なる側面、違った視点、様々な角度から見ているに過ぎないのである。本来それらは感覚の感じ方の違いといったものなのである。 そしてそれらは、たいてい他の感覚とともにやってくる。たとえば空気の色とニオイ。おだやかで優しげな春の空気の肌ざわりといったもの。生まれたばかりの小鳥のさえずりなどもそうだ。それらはたいてい、いっしょにセットでやってくる。にもかかわらず、それらが別々に 孤立してやって来るところに、誤解の源がある。スピーカーがそうであり、ディスプレイがそうであり、店舗から漂ってくる何か意図的に作られた合成のニオイがそうである。 見るもの、聞くもの、触れるもの、それは自分が感じる、自分が生きている証拠なのであるが、そうした感覚が、偽りの作りものの感覚として、おカネで求めやすくなっている。とっても便利なのであるが、もっとも大事なことがより一層、見えにくくなっている。イヤ、見てはならないように出来ている。それは、おカネで買えないものだから、それに気づくと面白くないのである。 |