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それはいわば、社会の型枠とでもいったものなのである。そうした枠の中、ないし、見えない壁の中の世界を、人間は生きているのである。サダメとかオキテ、シキタリとか作法といったものがそれである。これと同じことを、より感覚的で身近なものとして言えば、無言の圧力、場の空気、暗黙の了解、雰囲気とか身振り素振り、目配せ、気配いなどといったものである。 話がここまで来ると、もはや、「ぼやける」という目の見え方の話ではなくなるように思えるが、けっしてそうとは言えない。「ぼやける」という見え方には、もっと観念的な意味も含まれているからである。そもそも、「ぼやける」という見え方からして、観念的なのである。 それを意識する、しないにかかわらず、人間というのは現実をボカすものと、ボカさずにハッキリしたものとに明瞭に区別して見ている。つまり、多かれ少なかれ、人間の感じ方や考え方がそこに入り込んでいるのである。 そうした人間の、無意識の意識が、現実を見えるものと、見えないものとに識別して見せているのである。もちろん無意識の世界でそうなのである。そうやって、身体の感覚やその生理といったものが最適化され、様式化され、パターン化されて行くのである。 |
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