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12、潮(うしお)



だから、それがいったい何なのか自分でもわからず、コントロールもできず、ハッキリしたカタチで表現できずにいるのである。だからまた、言い換えると、それはどんなものにでも見えてくる。どこでも、何にでも、それが予感され、そう感じられて来るのである。

それが何かの暗示のように思えてくるのである。ことばとかイメージで現実を見ているのではなくて、何かを予感させ誘うものとして現実を見ている。現実が、現実にはない何かを暗示するようなものとして、感じられてくるのである。そうした、ことばにならない、ことば以前の象徴の世界を生きているのである。

それがはたして何なのか自分でもわからず、どうにもならないのに、それが影のように付きまとって来て離れないのである。そうやって、何かが予感され、求められ、暗示される。符号として。印象として。そしてそれが何なのかわからず、はてしのない本能的な衝動だけが潮のように満ちて来て、自分を呑み込んでゆくのである。


戻る。               続く。

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