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5月の空気は、うすぼんやりした、間の抜けた、どうでもよく、どうにでもなる、ただ心地良いというだけの、たるんで、ゆるんで、ふやけきった「空気」である。そこからは、なにかしらの積極的な意志、行動につながるような意志は見当たらない。なり行きまかせの、またそれでもやって行けるような、そんな空気の色である。 たとえば、同じふやけるといっても、秋のような忍び寄る冬の寒さを予感するような、そんなふやけ方とも違う。たしかに5月の空気は、、むし暑くやりきれない夏の予感はあるが、でもそれは、ついこのあいだの、冬の寒さに比べればどうでもよいことなのだ。ただ何もしないでじっとしているだけで、冬の寒さは遠のいて行ったし、まだその気分から抜け出せないでいるのだ。 空気というのは暖かさであり、水(湿気)であり、また風でもあり、そしてまた光でもある。イヤ、むしろ、空気の正体は太陽の光なのかも知れない。暖かさや水のめぐみ、季節の移ろいといったものは、太陽がもたらすもので、そして空気がそれをはこび、人に伝えているのである。空気が無ければ、人間が太陽の光を直接感じるのは熱だけであって、「空気」はむしろイメージとか象徴としての意味合いの方が、はるかに強い。 |
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