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それは実際、感覚の感覚としか言いようがない。自分でも意識できず制御もできない、それでいて自分のなかにある、無意識の世界の感覚なのだから。自分の肉体のなかに、自分の祖先の記憶を見ているのである。あるいは、自分を無視して祖先の記憶が一人歩きを始めるのである。 自分自身の身体の骨や筋肉、臓器、神経や生理作用のリズムや、そのアンサンブル、バランスといったものがそうである。古代宗教儀式におけるトランス(陶酔・興奮状態)は、それを極端に高めたものである。 そうやって、自分自身の過去、ないし祖先との対話をしているのである。何かの遺物や古文書だけでなく、自分自身の肉体の感覚の中に、それを求め、確かめているのである。確かに見えてもくるし、自分の中に住むもう一人の自分を通して映し出されてもくる。 そうやって、祖先の記憶とタマシイが呼びさまされ、そして、それと対話をしているのである。何が善で何が悪か、あるいは何をすべきか否か。そうしたことが意識の届かない、自分自身の肉体の中の記憶に問われるのである。 |
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