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10、未知。



そうだとしても、たとえそれが感覚自体の障害や不具合、混乱や錯視などに基づくといっても、それはそれで感覚自体の一つの限界を示しているのであって、その限界の境界線上、および、その境界の外の世界については、感じられないというだけのことなのである。

それは、人間にとっては未知の世界なのである。「感じられない」とは、無いということではなくて、自分にとっては「未知」だということなのである。これが人間にとっての感覚の感じ方なのである。

しかし、もしかすると、そうした場合でも感覚は、何かを伝えようとし、その表現に苦しみながらも、言い知れぬ何かを感じて必死に感覚に伝えようとしている、そう思えてならない。どうしても、そのように感じられて仕方がないのである。そうとしか説明のしようがないのである。それ以外の原因がどこを探しても無いのである。感覚の、こうした苦悶といったものは、それ以外に理解のしようがないものなのである。

だから混乱もしているし、整合性や筋道を欠いた、とうとつで、わけのわからない、幻のようなシルエットが、現実のまぶしさや暗さ、あるいは、空気のゆらぎや、その裂け目から、なにかの気配として感じられてくる。めまいのするような現実の中から、何かが見えたように思えてくるのである。

そうしたことは本来、人間の感覚器官で感じることの出来ないものなのであって、本来ある人間の五感にないものなのである。にもかかわらず、それが言い知れぬ直感として、第六感として、五感を超えた本能的な肉体の感覚として意識され、感じられてもくるのである。

それは非現実的な観念的感覚とでもいったものなのである。主観と思い込みと底なしの猜疑心が生み出した妄想の世界とも言えるものなのである。あるいはまた、人間の肉体が持つその機能やカタチといったものが、現実世界の中で否応(いやおう)なく遭遇する、必然ないし傾向とでもいったものである。もともとそのように仕組まれていて、潜在的な可能性として、あらかじめ設定されていたかのようにである。


戻る。             続く。
 

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