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それは、自分自身の中にある無意識の、忘れられていた肉体の記憶、ないし、肉体の機能に残存し続ける祖先の記憶や、生理作用の感覚なのである。本能的な衝動や条件反射、とっさのときの身のこなしや、本能的に感じる、何かの気配、息づかいとでもいったものである。 「感じられない」とは、何も無いというだけでなく、何かがあるのかも知れないし、ただ自分に感じる能力がないだけかも知れないし、あるいは、感じていても、それを感覚の感じ方として示せないでいるだけかも知れないのである。 あるいはまた、いまだ自分が知らない未知のもので、自分でそれを、いったいどう表現したらよいのか、わからないでいるだけなのかも知れない。だから、感じられないとは、無いということを意味していない。むしろ、感じられないとは、未知のものがそこに有る、と考えた方が正しいことのように思える。 それどころか、使わない感覚は失われ、忘れられ、見失われてゆく。そうした、既に喪失している感覚が、失われた未知の部分として、何かのキッカケでふっと感じられてくることがある。自分でも何のことか分からずに戸惑い、ためらい、驚き、悩んでしまうのである。 |
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