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人間が見ているのは物理的・光学的な映像である。そしてそれは、生物としての人間の感覚器官を通して見ているのであって、さらに、大気中を空気を仲介して現実をみている。従ってまた、その時の空気の状態と性質によって、空気のなかで、ものが歪んだり消えたり現れたりもして見える。 空気の中から、空気を透かして、ゆらぎ、きしみ、裂けて、広がり、中から何かが見える。光の回り込み(「回折)、屈折、偏光、透過。さらに、陽炎(かげろう)、蜃気楼・・・、などがそうである。 そしてまた、自分自身の目のなかでも、それと似たようなことが生じている。自分自身の網膜に投影された映像を、自分自身の体内の生理作用を通して見ているのである。だから残像とか補色、まぶしさ暗さによる色の白飛び、光源のフレアなどが、実際に現実にあるもののように、見えてくるのである。自分の生理作用による混乱と限界を、現実にあるものとして見ていると錯覚するのである。 とは言っても、惑わされてはならない。これは現実に、自分の目の中で見えているのである。それは錯視といえども、自分の生理作用そのものなのであって、それは、自分自身の生理作用の記録を見ているのである。 それは、潜在的で無意識な世界であって、自分が生まれる前から先天的に、祖先から引き継がれて来たものなのである。それは、自分自身の本能的な直感を見ているのである。従って実際に、現実に見ているのである。実際に現実にあるものとして見ているし、また、見えてもいるのである。 |
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