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そしてさらに、それを見て思考が集中し選択される過程で、重要で必要と思われるもの、自分がのぞむものだけが、大きく、強く、そして鮮やかに印象に残る。そしてそれがずっと記憶に残り、クセとなり、傾向となる。そしてこれが本人にとっての姿勢やカラダの動きとなり、「自分らしさ」の印象になる場合もある。 そしてこの「印象」というのがまた、人間の観念の世界で、自分自身の感覚の客観的な見え方を無視して、それを越えてしまう。主観的で一人よがりな独断と偏見に基づいて解釈される。そしてまたそのように見えても来る。いわば「観念的映像」とでもいうべきものとなる。自分の都合と主観的な思い込みの映像に過ぎなかったものが、まるで真実のように自分自身の頭の中で固定されてゆく。 だから、自分の感覚というものを、そのまま真に受けてはならない。自分の、つまり感覚の持ち主の利害関係が無意識のうちに入り込んでいて、ゆがめているのである。こうしたことが自分自身の感覚なのであり、自分だけの、自分のための、自分だけが持つ、自分にとっての感覚なのである。個性なのである。あるいは特徴であり、傾向なのである。 |
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