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こうした春の日の光といったものは、春カスミの空気の白さと密接に関係している。白さとは、光が大気の潤いに、つまり、空気中の不飽和水蒸気に反射しているのである。立ち昇る水蒸気が大気中の太陽光を、無差別に拡散反射し続けているのである。従って、何を見ても非常に薄くシロ色が入り込んでくる。カスミのせいで影が薄く、太陽の下というよりも、太陽がもたらす光の中を見ている感じである。 冬の終わりの「春」といっても、いまだ大気は肌寒く、そこへ南からの湿った気団が地表面と空全体を覆う。そして、照射角度と日照時間の増加した太陽の光が、地表面を照らしている。太陽の直射光に照らされた地表面の暖かさと、それに不釣り合いな大気の冷たさが、地表から常時に水蒸気を発生させて、それが春カスミ特有の空気の白さとなって見えてくるのである。 それはキリのような局地的なものではなくて、空と地上全体、世界全体を覆うカスミ(弱いキリ)の世界なのである。だから市街地では春カスミはほとんど見られない。湿気の多い郊外の山とか川辺、野原でよく見られる。近くの景色でもカスミで白っぽく見えて、それが遠くの景色では、白い背景のなかで現れては消えてかすんでゆく。 春カスミは地表に水のあるところ、川辺とか、植物が多い山々とか、湿地帯で強く現れる。キリと違うのは、広範囲で地上と空全体、見える世界全体を覆い尽くし、またそれが、昼近くまで長く続くという点である。 そしてそれは、生命の現われ出る場面、その舞台といったものでもある。生命はそうやって、自らを保存し、継続し、そして伝えて来たのである。そうするしかなかったし、そうなる以外になかったのである。それはある意味で必然だったのである。まるで、試験管の中で生命が培養されるように。それが地球という試験管の中で、数億年、ずっと半永久的に繰り返されてきたのである。 |
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