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マブしさのなかでは、輪郭も、色も、コントラストも消える。ただマブしいのである。なにも見えなくなるのである。何もないから見えないのではなくて、反対に、何もあり過ぎて見えなくなるのである。見え過ぎて見えなくなるのである。それは、見えるという人間の感覚を超えた世界なのである。人間は、もともとそれを越えて見えるようには出来ていないのである。 闇の中の暗い色は、目の感覚が何も感じないから、なにも見えないのである。シロ色は目の感覚が活発になり過ぎて、その限界を超えるために何も見えなくなるのである。まったく反対なのである。表と裏、上昇と沈潜、開示と引きこもり、光と影なのである。そして、シロ色は活動であり、上昇であり、自分というのが、外の世界へ出ているのである。 自分が外の世界と接触するところに、色とか明るさの明暗があって、それを感じることが出来るのである。もしも、感覚というのが自分の中に閉じて、こもっているとすると何も感じないし、それどころか、何かを感じているのかどうかも分からないし、それすらも確かめようがないのである。 真っ暗な世界では、自分の目が見えているのかどうか自分ではわからないのである。自分が何かを見ているのかどうか、自分でもわからないのである。 だから、シロ色というのは自分が外に出ていて、そして、外に対して開いているのである。精神は何かに向かって、何かを求めて、自分の中にある何かを振り切って、導かれ、あるいは追い立てられて、出ているのである。自分で自分の外の世界と関係しているのである。そして、自らの原理と必然性に迫られて開いているのである。 何かを求めて、開き、そしてそれが何であるかを確かめ、握りしめ、見つめようとしているのである。めざめて、なにかを予感し、求め、導かれ、指向しているのである。生きて活動し、自己の現実へ、外の世界へ出ているのである。開いて、押し出され、浮き上がって、昇って行くのである。 |
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