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2、まぼろし。



たとえば、まぶしさ、熱さ、痛さ、苦しさ等々。薄れゆく意識の向こう側に何かが見える。または感じる。あるいは、混乱する情緒のなかで、空間が何かの歪みや軋みとして感じられて来る。音とか、肌に触れる空気の感触なども、そうである。

そうしたことが、心臓の圧迫や、空気の息苦しさや、暗さ、まぶしさ。あるいは耳を無視して直接心臓から響いてくる、鼓動の音色(ねいろ)としても感じられて来る。つまり、直接、目には見えないのであるが、何かを強烈に感じているのである。

のみならず、それが軋んで、響き、共鳴し、呼応して、自らも自分独自の音色を反射して発信しているのである。そして、それらが重なって、新たな全く異質の音色のアンサンブルとなって拡散している。そしてまた、どこか知らないところで、それが共鳴され、反射し続けているのである。

幻覚・幻聴ということもあるが、それは、無いものを見ているのではない。現実には無くても、頭の中には確かに有るのである。幻(まぼろし)である以前に、何かが有るというのが事実であって、その感じ方の表現が、人間の感覚ではうまく表現できないでいるのである。あるいは、本来人間の感覚にないものを感じ取っているのかも知れない。

確かに何かが有るのであるが、要は、それが正確に感覚として反映されずにいる、ということなのである。自分でもわからないこと、未知のものを、感覚は正確に反映できずに、苦しんでいる状態なのである。だから、訳のわからない幻のようにも見えてくるのである。

現実にはなくても、自分の思い込みの世界では、確かにあるのである。そしてこの思い込みとは、自分が作り出した象徴と印象の世界である。あるいは、迷信とオキテとシキタリの世界である。つまり、たとえそれが現実だとしても、極めて疑わしい世界なのである。

あるいは、たとえそれが夢だとしても、確かな現実の裏付けのある夢だということである。このような印象を創り出したのは、自分自身の現実の世界がその出発点になっているのである。このような現実なしには、このような夢は作り出せないのである。


戻る。              続く。

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