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これがまた、現実の生きた世界というもので、そうした情緒の世界を私たちは生きている。それは、意識されることも、自覚されることもほとんどないが、まさにこのような肉体の仕組みでもって人間は生きていて、そして、それを取り囲む自然環境の中で、それと一体となって人間は生きている。私たちは、そうした情緒と感受性の世界を生きているのである。 それは人間が生きている現実の自然環境であり、それに制約され方向づけられているのである。それはまた同時に、情緒とか感じ方といった、現実にその中で生きて機能している感覚や心情の、傾向や指向するところを規制し続けていて、そしてまた、方向づけているのである。 だからまた、何かを感じるといったこと、例えば、熱いとか、痛いとか、感じよいとか、気持ちよいとか。そうしたことが単に感覚の感じ方としてだけでなく、たのしいとか、落ち着くとか、あるいは、何の理由もないのに、うれしくなって来たり、わくわくウキウキしてきたりするのである。 つまり、単なる感覚の感じ方といったものが、情緒や気分のあり方として、自分独自のリズムとしても感じられてくるのである。そしてこのような、心情や気分の心地良さ、安らぎといった指向性をもまた、無意識のうちに人間を規制し条件づけ、方向づけて来たのである。 それは人間の肉体と感覚がそれと意識することなく、自らが獲得してきたものなのである。そうやって自らを保存し続けてきたのである。また、そうやって生き続けて来ることができたのである。 |
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