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3、自己放棄。



なにもかも成り立たなくなって、破壊されてしまうのである。自分と現実世界に対する意識が成り立たなくなるのである。自分自身に対する根拠を失ってしまうのである。自分自身に対する理由や意味といったものが、わからなくなってしまうのである。

だから、自分を意識してはならないのである。だからまた、自分が見えるといった事がないのである。このような自己を喪失した世界では、みんなが願うことが絶対的に正しい。みんなに合わせる、みんなと一緒、みんなと同じように生きる。それがもっとも自然で当然のことのように思えて来る。

自分というのを喪失しているので、自分の替わりをしてくれる、だれか自分より偉い人が、どうしても必要なのであって、この偉い人の指導の下に、序列化した上下関係を作り上げる。これが日本社会の正義とされて来たもので、要するに「他力本願」、自己放棄の極みの世界である。

偉い人というのは、それ自体が偉くない人を必要とするのであって、こうした社会では「差別」は不可欠の前提となる。しかしそれは、ある意味でシアワセな世界でもある。なにも悩まなくて済むから。自分で自分に悩むなどといったバカなことをしなくて済むから。だからまた、だれにも受け入れられやすいし、そしてそれがもっとも自然で、正しいことのように思えてくるのである。


戻る。               続く。

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