index < 日誌 <af必然< 「言葉」p7/ |
といっても、このはじめのコトバといったものは、現在の誰もが普通にしゃべっているコトバとは、その意味合いといったものが、かなり異なっていたと思う。ひとことで言うと、少し現実から離れた、具体性を欠いた、観念的ないし心情的・情緒的な意味合いが非常に強いものだったと思えるのである。 例えば、現在では常識になっている、メートル(m)やグラム(g)などの数値的な具体性を求められるような、そんな場面自体がなかっただろうからである。例えば、距離、面積、重さなどと言っても、その基準自体がなくて、その都度変わる気分的なものに過ぎなかっただろうからである。客観的なものの見え方や、考え方といったものが弱くて、ものの見かた、感じ方といったものが、主観や思いつき、気まぐれ、そして心情や情緒に大きく左右されただろうと、思えるからである。 どこでも通用するような客観的な考え方や感じ方がなくて、というのも、人口が少なく、交通手段も限られ、そして、自給自足の閉鎖した社会にあっては、自分たちの村以外の、外の世界との交流がほとんど無かっただろうからである。 このような社会にあっては、どうしても場当たり的な思いつきや、気まぐれ、主観が優先する。それしかないからである。心情や情緒が優先する。なぜなら、考え、認識し、意識するといった、その対象そのものが非常に限られているし、それを広く考える必要もなかったからである。 |