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だから、始めに戻って言えば、そうした漠然としていて、ぼんやりして曖昧でありながら、自己の内面の心情の素直で直感的な表現として、本能的な肉体内部の、直接の衝動としてコトバがあったのではないだろうか。 このぼんやりした、観念的で本能的な衝動に、具体性と現実性を与え、そして実際に、どこの何かという特定性を持たせたのが、中国から伝わって広がっていった「表意文字」ではないだろうか。 文字は視覚的な記号として表現される。実際の現地の雰囲気や空気は伝わって来ない。現実の生身のコミュニケーションや出来事から切断されたところに、文字が成立する。 だからまた、それは特定されなければ分かりにくいものであり、そしてまた、現実の情緒や心情から切り離された世界なのである。だからまた、特定できるし、特定されねばならず、感情や感覚から切り離された思考の、論理的な展開とならざるを得ないのである。 個人の内面の印象や直感といったものが、そのまま肉体の発声でもって表現されるのではなくて、だれにも共通の特定できる記号、つまり、「表意文字」で表現されたのである。その現実の実際の場面とは離れた所でも伝わるようにしたのである。コミュニケーションというのが、現実の生身の肉体から離れたのである。 |