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それは人間が生きて行く上で、逃げることも、避けて通ることも許されなったのである。実に、いやいやシブシブそうせざるを得なかったのである。 人間が外の自然の中に、自分と同じ理性を発見する。というよりも、発見するしかなかった。発見してしまった。それは、もともと同じ思考の働きから来ていることなのである。あるいはもっと正直に言うと、自分で自分を認めざるを得なかったのである。 自分を発見したのである。自己を発掘し、そのなかで自分を再発見し、再生し、そしてなにかが誕生し復活したのである。新たに何かが始まり、自分がそれまでとは別のものになっているのに気づき、そしてまた、それまでの自分から切断されていて、それまでの自分をどこかで捨ててしまっているのである。 自分が、それまでの自分とは違う「何か」になっていたのである。そうして、自分というのを、自分自身の中に発見してしまったのである。自分の中に、いまの自分とは異なるかつての自分を見ている。自分で自分を見ているのである。 人間が生きて行くためには、自分の外の自然に働きかける以外になく、それが経験され、記憶され、意識される。そして意識の中で、連想されて行って合理性の下に抽象化される。それは規則性とか秩序、抽象化された共通性などとして理解される。そうやって自然が理解され、そしてまた、これを基にして自然とのかかわり方が定められ、方向づけられてゆく。 自然を利用して生きるというのは、自然を利用する人間の蓄積された経験と記憶をもとにしているのである。それが、「同じ」という意味なのである。そうやって人間は、自然の中に、自分の中にあるものと「同じ」ものを見ているのである。合理性といったものが、それである。合理性とは、理性にかなっているという意味である。外の現実を、自分の観念の世界の中で対象化しているのである。 つまり、合理性によって理解できるものという意味で、自分も自然もまた同じだということである。自分の心の中に見ている同じものを、外の自然の中に見ているのである。見える現実の世界から、直接には見えない原理や秩序といったものを、観念の世界の中で見ているのである。そうやって自分と、その外の世界を理解し確かめているのである。そうして、自分の外の世界というのが知られてくるのである。 |