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「形式的思考」、それは思考の規格大量生産である。だれに対しても、その実体や裏付け無しに、それを無視して居場所と存在の理由を与えてくれるのである。これは、思考と生活を画一化・均質化するものであって、その中で人間は自分の存在理由を得ることになる。 だから、どうしても権威指向とならざるを得ない。権威が自分の規格をランク付けしてくれる、というわけである。社会の中での自分の上下関係と、ヨコの仲間としての繋(つな)がりを示してくれるのである。そしてそれが、そうした社会でのルールと常識を作りだしている。 こうした社会では、自分で自分の考えを持ったり、自分自身の個性や自律性といったものがない。だれもが個性があるように見えながら、それらすべてが自分の外から押し付けられる規格やランク付けに過ぎないのである。だから、自分の考えや自分の自己意識といったものを持つ、ということがない。 かいま見ることも、意識することもない。そもそも、そういう必要のない世界なのである。また、もしもそれを意識すると、自分の理由を見失うことになる。だから、そういうことは避けるのである。自分を意識するということは、許されないことなのである。 |
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