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これは反面、見かたを変えれば偶然の錯覚であり、倒錯と言えるものでもあるが、しかし同時に、人間の思考や感じ方といったものが、そのようなものとして成り立っているということでもある。 すなわち、現実の世界というのを、何かしらの印象を基に見ていて、これを抽象化して象徴として見ているのである。そして、それが何かしらのサインや合図となって、意識や考え方といったものが組立てられているのである。 だから、話しを元に戻すと、親や共同体に対する愛や忠誠と言っても、たいていそうした偶然の錯覚の要素が入り込んでいて、むしろ、そうした偶然の錯覚の果てしなく永い歴史的な積み重ねと蓄積が、思想や信念、あるいはまた、自分にとっての「信じるもの」の根源になっているのではないだろうか。 |