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それが、自分にとってどうしても必要なもので、それなしには、現実のなかで自分が生きて行くことが出来ないという、自分にとっての不可欠の願いが、そのまま自分にとっての正義や真理となっているのである。それどころか、こうした願いがそのまま、自分にとっての存在理由や心の拠り所となっているのである。 だからまた、このような考えや思想、信念といったものは、それ自体で正しいものであるかどうかは、本来別のものだということである。言い換えると、それはあくまでも時代と現実がもたらした、相対的な正義に過ぎないということである。 人間が生きている条件や必要に左右されるものだということである。その場その時の事情や環境によって異なるものだということである。そして、たとえそれが最も自然で原初的な生き方としての、親や共同体に対する関係でも、それは例外ではないということなのである。 必要から生まれた主観が正義となり、そして客観となって、さらに普遍的な真理となっている。あるいは、そのように思われている。あるいはまた、「普遍性」という概念そのものが、もともとそうなのかも知れない。 |