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中世、人間が生きて行くための生産手段といったものが、土地の上でなされる農業が基本とされ、、人間が生きて糧を得るための手段といったものが、土地という限れた空間以外に無かったということである。現在でいうところの「就職先」というのが、土地にしがみついて生きて行く以外になかったということである。 そしてその土地=稲作の耕作面積に限りがあって、余剰人口はすべて切り捨てられる。切り捨てられないためには、子が親を、農民が領主に競って人格的にも人間的も、そしてそれが社会的に制度化された身分的にも、さらに、思想や意識の世界でも人間を縛り付け、支配し、強制されて行く。 ほかに生きてゆく手段がないからである。そうする以外にないのである。もちろん、こうした状況は古代・中世の社会のことではあるが、要は、そうした意識が根強く残り続けているということである。近代に入って生活のスタイルが大きく変わっても、意識の世界では、例えば道徳や社会通念、シキタリや常識として今なお強力に人間を支配し、強制または誘導し続けているということである。 世の中が変わっても人間の無意識の世界は、そう簡単には変わらない。また、人間は、自分自身に対する自意識と自己証明、そしてそれ以上に、精神の内的同一性がどうしても必要なのであり、これがまた、今まで自分を支配し続けてきたところの、儒教的生活規範からの離脱をむずかしくしている。 これではダメだというのは、現実の生活のなかで数多く遭遇するのであるが、そうであるにもかかわらず、、いままでの常識とは全く別の常識というのが見つからないのである。それは自分でも知らない未知の異質な世界なのである。 そして、こうした未知の常識というのは、自分が自分であるところの、自分がこれまで自分としてきた自分自身の、自己の内的同一性(アイデンティティー)に反するもの、もしくはそれを破壊するものとして感じられてくるのである。実際に破壊するものでもあって、自分が自分でなくなるように思えてくるのである。だからまた、より一層にそうした常識からの離脱を困難にしているのである。 |
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