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13、一体性。



それは自分を知り、自分というのを理解し、自分を確かめ、、自分自身を了解しようとする、無限で切実かつ深刻な求めだったのではないだろうか。だからまた、いつも立ち止まることが許されず、指向し続けているのである。指向していること自体が、自分自身の生命なのである。

それは言葉でも理屈でもない。言葉や理屈は他人から教えられるものである。そうではなくて、自分自身が本当に納得のいくものなのである。自分自身の内的自律性そのものなのである。

コトバや理屈ではなく、それ以前の意識でもなく、本来の自分自身に属する、自分の中にある感じ方の問題なのである。むしろ、肉体の生理のリズムに近いものなのである。自分の肉体の感覚や、情緒としての感じ方の問題なのである。

自分が生きている自然や、風景や、四季や、そしてそのなかでの、自分自身の感覚の感じ方が問われているのである。外の自然と、肉体の感覚と、精神のリズムが統合されて一体となっている。それらは、もともと同じ一つのものなのであって、それらを別々に切り離して考えることなど、不可能なのである。自己の一体性とは、このことなのである。それは自意識の根源なのである。

自分自身とは、自分が生きているこの自然や、風景や、四季の一部分であり、それがまた、自分自身の自己同一の一体性であり、そしてまた、自分自身の歴史的なルーツの表現なのである。このような「一体性」なしに、自分自身の精神というのは存在し得ないのである。それは、区別であり、境界であり、自己の精神の不可侵の領域なのである。

このような現実、コトバでも意識でもなく、それ以前の、自分の肉体の感覚が直接感じる世界においてのみ、本来の自己の根源があるように思えてくるのである。


戻る。             続く。

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