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5、現れる場面。



まったく変わり映えのしない「島」という閉じた狭い空間の中を、同じ民族の、同じ子孫が、同じ場所で、ずっと同じ生活スタイルで生きてきたのである。だから反面、わずらわしく、うっとうしくもあって、それとは別の何か気をまぎらわす場面が求められたのである。

生活空間自体が狭いのである。逃げたくても、逃げられず、そこで生き続けるしかないのである。日本は島なのである。そしてまた、このような、うっとうしさから逃れ出る場面がどうしても必要だったのである。そうした場面こそが、実は、日本の移りゆく変化に富んだ自然の世界だったのである。

社会関係において、集団の中に個人が理没して、同化して、溶けてゆく。と同時に、個人という世界のなかでは、それとは別の方向を求め続けている。そして、それに答え続けたのが、日本の変化に富んだ豊かな自然だったのである。

あるいは、空間的に極端に最小化された坪庭や盆栽だったのかも知れないし、あるいは、物作りの世界だったのである。そうするしか無かったのである。個が自らを表現する場面としては、それ以外に無かったのである。あるいはまた、変化のほとんどない日本庭園の「枯山水」のような、現実から離れ、現実を越えたところにある、無限の世界のなかに自分自身を感じ取ろうとしたのかも知れない。

集団の中で個が薄れ消失してゆくと同時に、個人レベルでは、自然との関係において「個」がとぎ澄まされ、発揮され、深まってゆく。日本人の気質といったものが、外から見ると「内向的」に見えるのは、そのためである。手先が器用で、物作りの発想がユニークで、自由で創造的なのはそのためである。こまめで几帳面なのもそうである。細かくあれこれと、クチうるさくこだわってくるのもそうである。他に移り替わるといった物理的空間そのものが、そもそも限られているのである。


戻る。            続く。

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