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5、解放。



つまり、自分の肉体の感覚と意識が、それぞれ別々のことを感じている。精神が分裂して対立したままである。だからこそ、思考によってムリヤリ統一しようとしている。そうやって偽りの、見せかけだけの精神の安定が保(たも)たれている。

しかしまた、この思考とは、自分の思考ではなくて、自分の外にある権威からの押し付け、ないし、借りものであって、だからまた、偽りとならざるを得ないのである。自分の理由、ワケといったものが、他人によって意味づけされているのである。そして自分はそうなのだと、思わされようとしている。

そう思わなければならない。これが秩序であり、道徳なのである。親兄弟、先生、上司といった目上の者に逆らったり、疑ったりしてはならないのである。これが正義なのである。自分を取り巻く社会に逆らっては生きて行けないのである。これが世の中の仕組みというものなのである。

そうやって、自分が他人によって決めつけられてしまう。だからそれは、どんなに素晴らしい意味づけであったとしても、やはり、まやかしであって、白々しいニセモノにしかならないのである。

だから、そうした人間を見て人型ロボットとかナリスマシ人間というのである。そしてまた、そう言う人間もまた、ナリスマシ人間を超え出ることがないのである。そうであるしか無いのである。

私たち人間は誰も、そうした社会の枠(ワク)の中で生きているのである。この枠を出たところに自分を表現する場所などないのである。ここを離れたところに自分の居場所などないのである。これが自分にとっての唯一の現実なんである。この現実を離れて生きて行けないのである。

社会的人間とはこのことなのである。この枠を出たところに社会のキズナなど存在しないのである。残念ながら、この枠を通してのみ、自分は社会的存在たりえるのである。だから自分もまた、ナリスマシの人型ロボットであるしかなく、そしてまた、このような現実を通してのみ、自分が映し出されてくるのである。そしてこうした現実の、際限のない自己否定の中から、それを通しして、自分自身というのが解放(または追放)されて、押し出されてくるのである。


戻る。             続く。

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