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それは、つまり、異界を見ているのである。現実を生きる当然の、正常な状態からの逸脱した世界を見ているのである。それは言うなれば、自分自身の心のなかを見ているのである。自分自身の心の中で反射して、映し出されたものを見ているのである。 現実に見える世界が、目にはいままでと全く同じものを見ているのに、意識の世界ではまったく別の意味を持つものとして映し出されている。それは現実の世界が僕にそう見せたのではなくて、ぼくの心が、そのような異質な世界として現実を映し出しているのである。僕自身がどこかで変わってしまっているのである。 そして、それをまねき、おびきよせ、よみがえらせたのは、それもまた、ぼく自身の心の動きなのである。何か自分の心の中に、言い知れぬ自分でもわからない所があって、それも自分なのに自分ではない部分があって、それが、目に見える現実の世界を、何か異質な別世界のように映しだしているのである。 ここで一つ、どうしても断っておかなければならないことがあるが、「認識」とは観念の世界であって、現実の世界というのが、それを見る者の立場や理由などによって様々にその意味が違ってくるということである。 ということは、自分の理由というのが、現実とは別の世界にあって、そこから現実をながめて見ると、現実というのがそれまで見て感じてきたものとは、まったく違ったものに見えてくるということである。すがたカタチは同じでも、その意味するのがまったく別のものに見えてくる、ということである。それまで気づかなかったことが見えてきたり、また、それだけが強く強調されたりするのである。 そしてそうしたことが、物かげや暗がり、あるいは空間の裂け目や、シルエットの輪郭の途切れとぎれになった明暗の境い目などに、なにかを象徴するものとして感じられても来るし、印象として残り、何かの符号として、それを強く暗示するものとして迫っても来るし、感じられ、そしてまた、見えてもくるのである。 |