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3、必然性。



もともと、そうした何かが自分の中にないと、見えるものも見えて来ないのである。いつまでたっても、何かが見てくるということがないのである。自分の中にそれを求める何かがあるのかも知れないし、あるいは無意識のうちに、それをのぞみ願っていたのかも知れない。あるいは反対に、忌み嫌い、おぞましく忌まわしいものとして封印し、締め殺し続けてきたものかも知れないのである。どちらにしてみても、要するに、心のどこかで自分が「意識していた」ということなのである。

そのどちらにしても、もともと自分の中にそれを願い、求め、導く、あるいは反発し、あるいはまた、言いかえれば、それが自分のなかでコダマし、共鳴し、反響し、めざめ、そしてリズムとなって鼓動する「何か」が、もともとあったということである。そしてそれが意識される何かが、自分の中にあったということである。

ではいったい、それは何なのか?  それがつまり、必然性といったもので、宿命とか運命などという人もいるけれども、そういうのではなくて、もっと現実的で、合理的かつ具体的なものである。偶然に必要な条件が重なり合って、仕方なくそうなったということなのである。

ひとことで言うと、それはそうなるしかなかったのである。それ以外になく、それだけしかなかったのである。言い換えると、他にもたくさんの生き方や方法があったはずなのであるが、それらがすべて潰されるか、消えていって、最後に残ったのが結局これだけだった、ということなのである。現実に今それが残っていて、他の方法が何も残っていないということ自体が、それを証明しているのである。


戻る。             続く。

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