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こうした、もっとも原始的な、自己というのが誕生してくる初めの世界を見ているのである。もしかすると始めのそれは、自分が自分ではなかったのかも知れない。だからまた、意識もされず自覚もできないのである。 それがどうしても自分のなかで自覚することが出来ない世界なのである。それは、もともと自覚されて生まれてきたものではないからである。だからまた、コトバとか理屈(思考)でもって、それを確めようとするのはバカげているし、出来ない相談なのである。自分の身体と肉体に直接、それをたずねるしかないのである。 数千数万年に渡って積み重ねられ、くり返し継続されて来て、そしてそれがカタチとして固定し、定着した肉体のカタチや機能、生理のパターン、そして感覚の感じ方自体にそれをたずねるしかないのである。 そしてまた、それこそが人間が生きているという確かな証明なのである。そうやって、自分自身を自分で確かめているのである。自分がはたして誰で、なぜここにいて生きているのか、そのワケを、その必然的な理由と原理といったものをたずねているのである。自分で自分の肉体に訪ねているのである。肉体とは、祖先から引き継がれてきた、自分の現実のカタチだからである。 この肉体のカタチを通してのみ、自分というのが現実へと出て行くことが出来るのである。そしてそれこそが、自分というものの現実のすがたなのである。それはいくら見ても、わかるというものではないし、また思考でもって理解できるというものでもないのである。 自分の感覚、自分自身の肉体の感じ方、感性ないし情感でもって確かめるしかないものなのである。自分でも他者でもなく、それ以前のところにある、自分自身の肉体の感覚でもって確かめるしかないものなのである。感覚とは、祖先が生きて来た歴史そのものであり、そしてまた、その結果なのである。 |