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4、原始。



それは、言葉ではなくて、身体内部の生理作用として現れている。言葉では伝えることが出来ないのである。言葉でもなく、意識の記憶でもなくて、身体の記憶として、生理作用や感覚の感じ方そのものとして、保存され、引き継がれ、記録されてきたものなのだ。

だから、言葉とか何かハッキリした記憶として残っているものではなく、残りようもなく、肉体が肉体自身の感覚として、蓄積され、保存され、パターン化されてきたものなのである。機能や役割、カタチやその動きがそうなのである。そのように出来ているのである。それが自分の肉体の意味であり、そしてまた、自分自身の現実のすがたなのである。

だから、そうした感覚の記憶といったものは、ハッキリしたイメージやカタチ、あるいは意識や論理のつながりとして示されることはない。示すこともできない。それは論理とは別のものだ。ただ単に、直接に、感覚の記憶として、何かの叫びや衝迫、恐れ、おびえ、あるいは果てしない祈りとなって、自分に襲いかかってくるのである。

それは発掘され、めざめて、そして発見され、復活しようといている。そして、新たに生まれ出ようとしている。自分自身のもっとも原始的なすがた、混沌としていて、入り乱れて、とらえどころのない、これからカタチとして生成して行かなければならない、そうした、自分自身のもっとも原始的なすがたとなって現れているのである。


戻る。             続く。

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