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6、暗示。



それでは、この「他の者」とはだれか? それは、自分の祖先のタマシイを見ているのであって、そしてそれを感じ、それに触れて交流しているのである。しかし、こういう言い方はキモチ悪いので、他の言い方をすると、祖先の記憶を見て、触れて、感じているのである。自分で自分の心のなかを見ているのである。

自分自身の身体のなかで、意識が届くことのない忘れられた感覚の世界を覗(のぞ)いているのである。遠い祖先の記憶が忘れられ、失われ、そして堆積していって、そしてそれが肉体の骨格となり、筋肉となり、目や耳といった感覚器官となり、さらに、その感じ方や生理作用として保存され、残っていったのである。

それは意識でも、観念の世界でもなくて、自分自身の意識が入る余地のない肉体の生理の作用であって、生きた感覚の世界なのである。自分の中で生きて活動している、血や、肉や、筋肉、神経、それに心臓の鼓動や、呼吸の息吹きの世界なのである。

それらが統合され、バランスされて、生きている時間の流れのなかで、振幅し、躍動し、リズムとなって伝わってくる、そうした自分自身の肉体のリズムそのものが、自分に対して何かを伝え、導き、そして示しているのである。あるいは、それを示唆し、暗示しているのである。


戻る。             続く。

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