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それは必然の指向性とでもいうべきもので、そうなるしかなく、そうする以外になく、そうあるべくして、そうなったのである。そういう意味で、人間が自然条件と文化的環境に支配されていて、そしてそれがまた、必然の結果であると思えてくるのである。 それは、有無を言わせぬ絶対的な強制力なのである。現実とはこのことなのである。人間は、この現実を生きるしかなく、また、この現実を通してしか自らを表現し得ないのである そして、この必然性といったものが意識されることなく、自意識を形成しているのである。習慣やシキタリ、生活のサイクルといったものがそれである。それは、そこで人間が生きている自然及び文化という背景から生み出されたものなのである。 それはちょうど、鏡(カガミ)の中に見る自分のすがたである。同じものを別の世界から見ているのである。と同時に、カガミを通してしか見えて来ないのである。現実とは、カガミの中の世界であって、それを透かしてしか自分というのが見えてこないのである。 そうして映し出された自分自身のすがたといったものが、情緒や気質の特徴、感情のあり方や生活のリズムとなって現れているのである。そしてまた、そうやって自分自身というのを知り、感じ、たしかめているのである。従って、意識といったものは、現実の世界、ないし、文化と自然環境からの延長なのであって、そこから導きだされて来たものである。 |
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