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自然そのものの中にある自然法則や必然性といったものが、何かに導かれ、または追放、もしくは追い立てれれて、カタチとなり、形式となり、そしてまた、それ固有のリズムとなって現れているのである。そしてそれらがひびき合い、コダマし、交流し、アンサンブルとなって伝わってきて、意識され、そして感じられて来るのである。 それは、いわば言葉以前の世界であって、自分自身の肉体の感覚だけが知る、情緒とでもいったものである。機能する感覚の、それ自体の形式、パターン、音色(ねいろ)とでもいったものである。そしてそれが、それ自体で指向する必然性を生みだしているのである。 肉体の感覚が、それ自体で何かに導かれ、指向し、求めているのである。その何かとは、自分自身の肉体の構造であり、機能であり、条件であり、そしてまた、自分の外の環境のことである。そうしたことが自分自身の情緒につながっていて、現実世界とのバランスと調和をカタチ作っているのである。 バランスとは、時間的・空間的調和であって、言い換えると、歴史的・地理的条件のことである。そうした現実の様々な要素が、一つの全体としてつり合いを保っているということである。生と死、変化と保守、全体と個、停止と躍動・・・等々。 そうしたことが外(そと)にむかって、際限のない無限の変化を繰り返しながらも、その内部においては、もともと自己の内部にあったものの復活、ないし、再生に過ぎないといった場合である。 このような変化ないし変異とは、潜在的な可能性といったものが、自分の中で見えないまま隠れていて、それが表に現れ出て来ているのである。それは、同じものが姿カタチを変えて表面に出て来たのであって、もともと何もない所から何かが出て来たという訳ではないのである。これが「内的同一性」なのである。 |
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