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3、座標。



そして実は、この指向性とか目的といったものが、システムを見る者にとっての指向性ともなっているのである。それを自分の無意識の世界で基準にしているのである。そのようにしか見えないし、見る必要もないし、実際、そのようにしか見えないのである。なぜなら、それが見る者にとっての、見る理由だからである。それとかかわりのあるものだけを見ているし、そういう側面だけが見えてくるのである。

それは言わば、見る人にとっての座標系なのである。
それは、見る者、見られる者それぞれにとっての必然性であり、存在の理由なのである。そしてそれは、自分の外の世界からでしかないと、見えて来ないものなのである。当事者には知りようのない世界なのである。主観から離れて客観的に見るというのはこのことなのである。

それぞれの当事者から離れたところにいる、外の、客観的な第三者にしかそれは見えて来ないのである。それぞれが異なる座標系を生きているのである。そして、こうした座標系から離脱(または追放)された人間にしかそれは見えて来ない。そうした、自分を他人のように見ている人間のことである。

肉体は現実を生きているのに、精神は別の世界を生きてるのである。肉体と精神が無限に引き離された世界、そうした世界でしか自分というのが見えて来ないのである。

そうやって歴史上の過去の出来事が見えてくるし、理解もされてくる。そして過去の出来事の必然の原理や、存在の理由が理解されてくるのである。


戻る。             続く。

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