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たとえば、それは昼と夜の心の中の世界であり、覚めた現実と、夢の中の空想の世界である。 それは、人間が集う場所の空気のニオイであり、光の明るさであり、軽さや重さなのである。あるいは、柔らかさ、おだやかさ、心地よさといったものなのである。無意識の内に人間の肉体がそれを感じ取っていて、そしてそれを共有し、拡げているのである。 「空気」の明るさや軽さ、息苦しさ、険しさといったものは、人間が自分の肉体の中で感じたものが、自分の外の空気の質として感じられているのである。だからそれは誤解なのである。 たとえばそれが、空気の明るさであれば、自分の外へと向かう、開いた情緒的な優しさ、やわらかく、温かい穏やかな明るさ、誘われて導かれるような明るさである。反対に空気の暗さとは、沈んで閉じて行くような内向的な世界、得体の知れない闇の底へと引きずり込まれて行くような、暗さである。このような精神のあり方が、なぜか自分を取り囲み包んでいる「空気」の質として感じられているのである。 しかし実はそれは、自分自身の肉体の生理の機能や働きといったものであって、それが、このように作用しているのであって、このような神経や生理の機能が精神に反映され、映し出されて、そしてそれを見ているのである。 自分で、自分の無意識の世界で、自分自身の感覚の感じ方を見ているのである。こうしたことが、言い知れぬニオイとか、「空気」のやわらかさとか、重さ、あるいは息苦しさとして感じられてくるのである。 そして、こうした条件の下で、あるいは現実という舞台の上で、人間が生活していて、意識したり行動しているのである。 |