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こうしたことは、キチンとわきまえていなければならないことである。現実の、自分の外の世界から、感覚がなにかを感じているのではなくて、自分自身の中の感覚そのものから、感覚が何かを感じ、それを理解しようとしているのである。感覚が感覚に対して何かを感じ取ろうとしているのである。 こうしたことは、まったく不可解で不思議なことでもあって、理解に苦しむことなのであるが、しかし、まさにそれゆえに、意識されることも理解されることもないのである。また、ある意味でそれは、意識してはならないものでもあったのである。 しかしまた、こうしたことが理屈ぬきの直接の感じ方として、「空気」の重さとか、薄いとか、あるいは周りの光の明るさ暗さとして感じられてくるのである。 しかし、何度でも言うが、それは自分自身の肉体の感覚の、感じ方から来ていることであって、外の実際の現実の重さ暗さではなく、自分自身の精神の重さ暗さが肉体の生理を通して、そのように感じられてくるということなのである。 |
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