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また、そのように見えるし、思えてもくるのである。そう「見える」というのは、例えば、自分が周りを無意識に避けるからであり、視界が狭くなって、うつむいて、心臓の鼓動や息の呼吸が弱くなって、周りが見えにくくなるからである。 だからまた、あるいは、無いものが見えて来たりもするし、そう思えてもくるし、小さいものが大きく映って見えたり、どうでもよいことが何よりも大事なことのように見えて来たりもするのである。 そして、このような主観性の世界を人間は生きている。それは思い込みと偏見の世界であって、それが群れて集まって客観性となり、普通の常識や感覚となっている。あるいは、正義や道徳、そして信仰や呪術の条件にもなっている。あるいはまた、社会秩序の要(かなめ)ともなっている。 だから、こうしたことを意識するということ自体が、すでに社会にとって「悪」なのであって、それは人間にとって災いと不幸のタネなのである。しかしまた、それこそが人間が人間であるということの証明でもあるのである。 自分で自分を見つめていて、自分自身に問いかけているのである。だれにも従属することのない、自由な自分自身の必然性の下に生きようとしているのである。人間が自分を意識するというのは、このことなのである。 |
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