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それは自然な情緒であって、そうであろうとする意志とか思考とは別のものである。自然条件や自分自身の肉体とが一体となった、感覚のリズムや情緒・情感といったものであって、意識や理屈、または理性で理解されたり、納得できるものではないのである。意識ではなく、雰囲気という感覚の世界なのである。 それは、届くことのない無意識の世界であって、その下で祖先が生きてきた文化の記憶を見ているのである。それは言葉や論理で理解されるものではなくて、自分で自分自身の肉体の記憶を見ているのである。感覚とその生理の仕方といったものが、それを通して自分に何かを伝えているのである。 自分で自分の感覚の世界を見ているのである。何かを実際に見ているのではなくて、自分自身の感覚の感じ方を見ているのである。そうした見えないものを見て、聞いて、何かを感じ、そして問いかけているのである。そうしたことが、自分の中のつぶやきや、残像や、得体の知れないノイズとして聞こえてくるのである。あるいは錯視や幻覚、見間違いとして現れているのである。 それは、自分自身の肉体が機能して活動する場所であり、そして、それが生成される過程を見ているのである。それは、いまだ意識にまで達するものではなく、まだ感覚と意識とが一体となって区別されずにいる状態なのである。だからまた、ハッキリと意識も自覚もされることがなく、情緒の段階にとどまっているのである。 |
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