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感覚が、それ自身で意識を無視して何かを見ている。感覚が感覚の内部で何かを見て聞いている。感覚がそれ自身の内部で何かをつぶやき、見て、聞いているのが感じられてくる。感覚がそれ自身で意識とは独立して何かを見ている。何かのつぶやきとか、イメージのカケラ、気配や、触れる異物の肌ざわりみたいなものを感じている。そのすべてが現実には無いものであって、それを自分自身の感覚のなかで見て感じているのである。 異物が自分の中に入ろうとしていて、自分の肌に触れて、そして中に入ってきている。何かを求め、探し、さぐろうとするかのように。精神はそれが自分ではないということを知っている。しかし、感覚の世界ではそれが自分の中に入ってきているのである。そして自分自身に問いかけている。これはいったい何なのだと。その意味を求めて問いながら、うろつき回っているのである。 なんとしても答えなければならない。これは自分自身の内部のことなのだ。自分自身のタマシイや精神、信仰の問題なのだ。自分の心の中にあって、深い底なしの霧の中から何かが浮かんできている。そして自分自身の感覚がそれに応えて問うている。これはいったい何なのだと。だから、どうしても答えなければならないのである。 自分の精神が分裂し、まるで自分が他人や異物のように感じられてきて、その統合に苦しんでいる。あえぎ、引き裂かれ、切断され、それでもつじつまを合わせようと苦しんでいる。そうするしかないのである。それが自分自身のありのままの現実のすがたなのである。 それは、精神が現実の世界に映し出した、自分自身のすがたなのである。タマシイが現実のカタチとなったすがたなのである。自分が生き暮らし存在している、自分自身の姿やカタチの根拠なのである。自分自身の理由や意味といったものなのである。だから、問い続けなければならない。問い続けること自体に自分自身の存在の理由があったのである。 |
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