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4、機械仕掛け。



痛い、かたい、熱い、ゆるい、やわらかい、冷たいなどといった感覚は、自分と外の世界との直接の関係であって、ある意味で分離されていない関係であって、相手とか対象に対する感情が入っていない。感覚は、その感じ方としての相手の存在を必ずしも意識していないのである。また、意識する必要もないのである。

自分の精神の内部と、外の現実との区別が必ずしもはっきりせず、ただ「何かある」とだけ感じて判断している。自分の精神の中だけで感じているのであって、それが自分の外なのか内なのかは、必ずしもはっきりしない。感覚は、その感じ方の対象を必ずも捉えてはいない。それを意識したり、自覚したり、捉えたりする必要もない。それが何なのか、誰なのかは不明のままである。

ただ何かがそこにあって、痛く、熱く、あるいは冷たく感じられて来て、それを都合の悪いこととして避けるのである。だからその避け方も条件反射(パブロフの犬)的で、意識されるということがない。ほとんど感覚だけの無意識の世界である。それ以上の意味も必要も持ち得ないのである。言わば、感情とか意識の入る余地のない機械仕掛けの人形みたいなものである。自分を意識する場面というのが無いのである。

しかしこうしたことは、人間の感情や生活スタイルについてもそのまま言えることであって、習慣や常識と化した日常に変化などなく、驚きも、予感も、トキメキも、ためらいもない。自分自身の心の中に、ためらいや動揺、驚きや感激もなく、自分自身を省(かえり)みるということが無いのである。自分を意識するといったことが、あまり無いのである。その必要も機会もない世界なのである。

だから、人間が自分を意識する場面といったものはこのことなのである。自分が、それまでの自分とは違う状況に置かれた場合である。非日常とか、異文化に遭遇した場合とか、あるいは、やむにやまれず、それまでの自分のすべてを捨てて、何か未知の世界へと離脱する場合などがそうである。

このような状況下では自分を意識せざるを得ない。また、そうして初めて自分が置かれている状況というのが理解もされるし、また、何らかの対処の仕方といったものも知られてくる。


戻る。             続く。

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