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しかし、それだけだと、あくまで情緒や感情にとどまるものであって、意識とか、何かの考えにまで至るということがない。何かを自覚することもない。つまり、感覚の対象の目的や理由といったものが自覚される必要があって、それが思考である。言葉と論理が求められ、現れてもくる。現実の自分の生活や、外の世界に対する理由づけがなされ、理解もされ、観念化が達成される。 その後は簡単で、宗教や国家体制、芸術や学問といったものが自然に湧き上がってくる。すでに発見されたものをカタチあるものとして、そうやって拡げて量産して行くのである。すでにわかっていることを、より細かく分析し、細分化し、押し広げ、拡大し、コピーして量産して行くのである。なにも考えることなどないのである。考えてはならないし、考える必要もないのである。わかっていることの、数だけをこなして行けばよいのである。 しかし、この「すでにわかっていること」を、それ以前のゼロの状態から「わかる」状態にまでもって行くのが、もっとも困難な作業なのである。つまり、自分自身の理由づけ、生活の観念化、存在理由の特定、といったものがそれである。 自分の外の世界、現実といったものが、見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてが何かしらの訳と、事情と、理由を持っていて、それが自分にもわかってくるし、そしてまた、そうやって自分というのも理解されてくる。自分と、外の世界とのかかわり方といったものが見えてくるのである。 |
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