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それは、自分たちが生きて活動して行く過程で捨ててきたもの、忘れたもの、見失ったもの、気づかないまま排除してきたもの。そうした意識されざる、忘れられた感覚が住む領域なのである。 そしてまた、自分の中で何か未知のもの、異質なもの、あるいは潜在的なものを見つけるとすれば、ここにしかないのである。自分の外に何か新しいものを見つけても、それを自分のものにするには、それを自分の中にあるこの異質な領域に持ってくるしかないのである。そうやって初めて、この新しいものの意味が理解されてくるのである。見えてもくるし、感じられてもくるのである。 すでにある既存の常識や感覚をもってしては、自分にとって異質なものを感じとることは出来ないのである。異質というのは、もともと自分の中に無いものなのである。しかしまた、それが「わかる」ということは、それに呼応し、反応して、そしてまたそれを映し出す何かが、自分の中にあるということでもある。 気づかないまま隠れて、忘れられていたもの、失われていたものが、かすかに思い出されてくるのである。言葉や思考以前の、私たちの肉体の中にある忘れられていたかすかな感覚の痕跡として。 しかしまた、こうした感覚といったものも、自分ではいったい何のことか分からず、不可解で、不思議で、まったくわけの分からない未知の感覚なのである。そして思い悩みもするし、引っかかり続けるのである。だからまた、それが異質なのであり、無視することも出来ずにずっと後々まで、カタチのない正体不明の何かの痕跡のようなものとして残り続けているのである。 |