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始めから、この世に生まれたときからそうなのである。何かが欠落していて、何かを忘れたままで、そうした中途半端な状態のままで、自分が誰か分からないままで、生まれ出てくるのである。なによりも大切で、どうしてもそこになくてはならないはずのものが、ぽっかりと欠けた状態のままで、現実の世界へと追い立てられて、出てくるのである。 だからまた、その自己の欠けた大切なものを探し求め続けるのであり、そうせざるを得ず、それが自己の必然性となっているのである。自分自身が求め、目指す方向となっていたのである。そして実は、まさしくこの欠けた部分こそが自分自身であり、自分にしかないもの、自分と他人が区別される個性となっているのである。 それは自分で見つけ、自分自身で生成するしかないものなのである。だからこそ、それが自己の内的必然性であり、指向性なのである。自分自身そのものなのである。 しかし、そうしたことは実際の現実がそうなのであり、男と女がそうであり、子と親がそうであり、個人と集団がそうなのである。あるいはまた、日本における季節の四季がそうなのである。海や平地と山がそうであり、農耕や漁労の違いがそうなのである。そうやって互いが自分を意識しているのである。 自分に切実に求められながら、それが自分に無いからこそ、より一層それが意識されてくるのである。また、求めざるを得ないのである。そうしていままで自分が気づかなかった「何か」が見えて来るのである。 その何かとは、自分自身の心の中である。生き方や感じ方、生活の仕方がそうなのである。なぜ、そうなるのかという「理由」が理解されてくるのである。自分自身の肉体の営みの訳(わけ)が知られくるのである。 |