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どういうことかと言うと、人間はそうやって自分自身というのを見ているのである。自分とは違う他人のすがたを通して自分というのを知り、理解し、納得しているのである。あるいは反対に、理解に苦しむことにもなるのである。しかし反面、そうした苦しみそのものが、自分で自分と対話しているのであって、自分を確め自分自身を知る場面となっているのである。 そうやって、あるいは反発し、あるいは和合しつつ自分を作り変えてゆく、そうした逆らうことのできないキッカケ、現実の避けて通れない強制力、制約や条件となって人間を支配し、導き、方向づけているのである。そしてそれが文化であり、自然環境であり、自己の歴史と文化の根源なのである。そしてまた、自己の体内の感覚が宿る場所なのである。肉体の機能や仕組みがそうなのである。 それは、人間が自分を目の当たりにし、自分で自分を自覚する自己認識の場面となっている。人間が自分を発見し自己にめざめる、そうした瞬間になっているのである。自(みずか)らが変異しつつも、自分で自分というのを形成してゆくのである。 |