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5、まるい。



白いカスミで景色がぼやけるので、景色の表面の色がぼやけて丸みを帯びるのは当然なのであるが、景色の中の境界線のカタチもまた、ぼやけて丸みを帯びている。見た目にもそうであるが、現実の、実際の植物のカタチ自体もまた、やはり丸みをおびているのである。

つまり、生き物としての植物自体が生まれて始まったばかりで、いまだ生存の闘争というのを知らず、またその必要もなく、水と光は空気中に広がり、まんべんなく散らばったカスミ(=水分)によって、どこからでも入ってくるのである。

夏のように、枝葉が光を求めて太陽の方向に集中し、競合し、そこから離脱することは死を意味する、そうした状況にまで至っていないのである。何もかもがまだ始まったばかりなのである。誰もがみな、同じスタートラインにいるのである。

白いカスミの水蒸気を通して、反射して、拡散して、透かして、光と水はどこからでも入ってくる。だから新緑や草花はただ単に、すき間を求めてヨコに広がって埋めて行く。デコボコがなくなり、平らになり、途切れた部分がつながり、連続して行く。

折れた屈曲面がなくなって、緩(ゆる)やかに連続してゆく。優しくおだやかで、柔らかい湾曲した曲面となってゆく。つまり、女性的な表面なのである。見た目だけでなく、ふっくら、ふんわりと優しく自分を包んでいる。そしてまた、地上を覆う空気といったものが、またそうなのである。

そうしたことを自分自身の身体で直に感じるのである。触れる肌の感触や、カスミの白さや、小鳥のさえずりなどと共に。そしてまた、おだやかに開いて流れてゆく肉体の呼吸や鼓動として、身体全体で感じられるのである。


戻る。              続く。

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