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3、理由。



たしかに、それはそうで、間接光だけだと光に方向性がなく、朝と夕の区別もなく、四季の移ろいもなくなってしまう。それは目覚めのない世界である。明るさの変化はあっても、それに方向が伴っていないのである。

その方向は、太陽の位置と軌道がもたらす、光とその熱の結果なのである。そしてこの「方向性」がなくなるというは、やはりどこか非現実的で、あり得ないことであって、自分だけの空想か夢の世界のように思えてくるのである。

たしかに、人間が朝起きて仕事に出かけ帰って来て、家で寝て起きる。そしてこれが日々繰り返される日常の世界、生活の舞台となっている。そしてまた、農耕の年間のスケジュールがそうであり、意識されることなく繰り返される日常の歳時記、行事やならわしといったものもそうである。

そうやって人間は生きていて、家族を養い子孫へと伝えて来たのである。そうしたことのすべてが太陽がもたらす昼夜のサイクルと、四季のサイクルに基づいて、それに依存して、それと共に生きていて、つながって、続いて来ているのである。

それはつまり、現実の世界というのは、太陽の位置と軌道のサイクルがもたらしている直射光(=直接光)の世界なのである。もちろん間接光も作用してはいるが、それは従属的で二次的なものである。なぜなら、間接光は方向性を持たないからである。

方向性とは示標であり、目標であり、理由なのである。光の方向によって、現実世界に時間の概念が入ってきて、このような時間の経過の中で自分を見ているのである。自分の中で時間が意識されるのである。

戻る。              続く。

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