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個人の発見。



ギリシャの自由は、自然のままの、あるがままの、意識されることのない自由である。人間が、意識も自覚もされないところで、それと意図することもなく、まさに、そのような状態として偶然にもたらされ、現れ、生み出されたのである。

たしかに当事者から見ると、それは偶然であるが、自然環境の客観的条件、民族と人間の暮らしの成り立ちからすると、それは、そうなるしかない、「必然」としか言いようのないものだったのである。このような自然条件、民族の歴史的・文化的状態といったものは、まさに、そうした「自由」が生み出される、制約された特殊な条件であり、歴史的にも、地理的にも、限定された特殊な世界である。

自由というのが意識も自覚もされない世界。外から見ると確かに自由そのものであるが、中から見るとそれは自由などではなく、本人の意識とはかかわりのない、シキタリとか習慣をこなしているだけなのである。それしかないから、いままでもそうであったように、そうしているだけなのであって、そうである限り自由ではないのである。

しかし、ソクラテスはそれを見抜いていた。だから社会から排撃され自殺に追い込まれ、そして、死後において見直され、理解され、尊敬されたのである。つまり自由というのが、意図も自覚もされない状態から、意識され、理解され、そして社会的に自覚されたのである。

人間は、自分の行為や習慣、シキタリや常識、そして意識といったものを、自分自身の中で自覚し、意識し、理解しなければならず、それは自分というのが、自分自身と関係を持つということであり、それは、共同体とは別の自立した個人の発見なのである。

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