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このとき視覚は現実を見ているのではなくて、視覚自身の空想と思い込みの世界を見ているのである。それは視覚が見ている夢であり「まぼろし」なのである。それは視覚の気まぐれと、気ままな思い込みであり、迷いや悩み、苦しみなのであって、視覚自身の中にある印象と象徴の世界なのである。 そうしたことが夢や「まぼろし」となって見えて来るのであって、自分自身の中にある意識の届かない世界が、無意識の迷いや気まぐれ、思い込みとなって、それだけが誇大に拡張された、偏向となって見えてくるのである。そしてまた、それだけが記憶に残り過大化してしてゆくのである。 無いものが有ると思えてきたり、何かそれと似たものがそれに違いないと思えて来たり、見えてきたりするのである。それは無意識の偏見であり偏向なのである。私たちはそうした無意識の、意識されざる思い込みと偏向、そしてそれが印象や象徴としてパターン化され、標準化された、観念の世界を生きているのである。 |