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6、拘束。



それはまた言い換えると、こうした「レール」の上から出て行かざるを得ず、レールから逸脱したところでにしか真実の自己は見いだし得ないということである。

自分自身を縛っていた拘束から脱出して、自分のことを自分で生き始めるということなのである。自分が自分にめざめ、自分で自分を生きて行くためにはそうせざるを得ないのである。

それは既存のシステムと対立せざるを得ず、自らがシステムを掌握し、システムを創りだしてゆく主体とならざるを得ないのである。そうする以外に自分を見い出す方法はないのである。

自らが自分自身の主体となるのである。自分を生み出し、自分を創り出し、自分自身を支配している社会の歴史や文化、自然条件から自らが自立し、反対に、社会そのものを自らが創造してゆく自分自身の主体になる、ということである。

しかし、こうした言い方はかなり独善的に聞こえるので、他の言い方をすると、この現実を支配している因習やシキタリ、迷信から不要なものを排除してゆくということである。

それがすなわち、自分で自分を創りだすということである。自分が古い拘束から解放(又は追放)されるということであり、イヤでも、新たに自分で自分を生成してゆくことになる、ということである。自分がそれまでとは別のものになって行くということである。

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